影響を受ける方の責任

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私は、本当にすぐに影響を受けやすく、例えば
大好きな本等は、その感性を自分なりにすべて
コピーしてしまうほどです。
他の表現をすると、映画を観た後に、主人公に
なり切っちゃう、みたいな感じでしょうか。

私は長いことどっぷり影響を受けていたと思う人が
いたのですが、ふとそういう自分に気付いた時、
「これって憧れの誰かの物まねなんじゃないか」と
思ってしまって、そこから再構築しなくちゃならなく
なって、でも「じゃあ本当の自分って何?」と全部
捨ててしまったものだからわからなくなって、結局
自分の判断をスルーして世間のいいというものを
一度受け入れてみる、という経験を自分に課したことが
あります。
気付いたら、何年もやってしまっていたのですが。。。

(余談です:
私にとっては、価値観を一度全部壊す必要があの時
あったこと、自分の判断をスルーして(あ〜でもこれは
やり過ぎたかも、、)世間の「良い」をやってみようと
したことは今では必要だったように思いますが、なんだか
こういった、「あったものをいきなり崩して再構築」とか
「前はできていたのにいきなりできなくなって、模索しな
がら再構築」みたいなことが私は長期スパン(もう10年
20年単位です)でやってきてました。
そろそろこういうパターン卒業したいですし、こういう
パターンを繰り返してきた自分の理由もわかりました。
今は最後の再構築でありたい、と思っています。
もちろん、日々命の最後まで新たな発見があるのはわかっ
ていますし、その話しとは別です。

すみません、長くなりました。)

自分の判断基準・価値基準が昔から曖昧であることが
私はどこかコンプレックスに感じていたのだと思います。
だから、強い意見を持っている人や、強く発言できる
人、強い意見に惹かれました。

紆余曲折あって今思うことは、物事のすべてにおいて
確固たる意見が言えなくてもいい、そんなに強い意見が言え
なくてもいいということです。
論点となっていることは、自分にとってそんなに
重要なことでもないかもしれないし、必要な時に必要な
ことが言えたり、逃げずに言わなきゃいけないことや
しなければいけないことができていることのほうが大事
だと思います。
強い意見や人に惹かれても、振り返ってみれば、
「相手のいいなりになってしまう」という結果を生んだり、
何かにつけ込ませてしまうことが多くあったように
思います。

つまり、人は人、自分は自分でいいんだなあと
改めて思いました。
どんなに強く憧れても惹かれても、その人と全く同じに
なることはあり得ないし、最後には、それを知らされる
だけでした。
だから、どんなに強く憧れても惹かれても、自分と違う
価値観をその人の中に後から見つけたとしても、自分が
劣っているから理解出来ない、とか卑下することも無いし、
無理矢理相手の意見に合せることも無い。そこで尊敬が
失われたわけでもないのです。どんなに惹かれても、
相手とは違いのある自分の存在を認めること、が重要で、
おそらくこれが、「人の上に人を立たせず」なのだと
思います。
平等の真理なのかなあ(笑)、なんて思います。

そして、結局自分の価値観、というのは、自分がどう
感じるかを素直に感じるだけ、だと思うのです。
でも、ちゃんと感じること。他がそう言ってるから
それでいい、とか誰かの意見に便乗しようとするの
ではなく、自分でちゃんと感じること。
これさえ日々繰り返していけば、自ずと自分の価値観は
形成されていくと思うし、他と比べなくても大丈夫な
自分やそういう状態(自信)も得られると思います。

影響を受けやすい、ということも、受ける側にも責任が
あります。
影響している人と自分とは違う、ということを念頭に、
影響を受けられる範囲は自分で見極めなきゃな〜と
最近思いました。


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