陶酔と自信

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小学生の頃、同級生でとてもピアノの上手な子がいました。
とても上手で、何が一番惹き付けるか、というと、
その子自身が、音やメロディに陶酔して我を忘れて弾いて
いること。 周りが気になってしょうがなかった私には、
とてもできるようなことではありませんでした。

我を忘れて何かに陶酔している(夢中になっている)姿、
というのは、上手下手を超えて美しく感じると思います。
無になる、に似ているように思うし、動の瞑想、のことを
言うのかもしれないなあ、と思っています。

ただこれが、おかしなことで、何かや誰か、ではなく、
「自分」に陶酔となったとたんに、どん引きとなります(^^;)。
「自分に陶酔」=「慢心」なんだろうな、と最近納得しています。

私は、ちょっと嬉しいことがあったりすると、結構それに
浸っていたいところがありましたが、そうしていると、必ず
まるで誰かに「いつまでも浸ってるんじゃない」と言われている
ような感じで、ちょっとしたアクシデントが起こって我に返らな
ければならない出来事が起こっていました(^^;)

今思えば、慢心を注意されていたのでしょうね。。。
慢心している自分、なんてかっこ悪すぎですよね。。(@@;)
そういう自分を発見してしまった(受け入れた)時、あー、穴が
あったら入って出てきたくない。。そう感じますよ。。。

「慢心」=エゴ、ということ。「自分に陶酔」=「慢心」、
つまり「自分に陶酔」」=エゴなんだということを最近
はっきり体感しました。

まあ、こんなに説明しなくても、慢心している人を見た時って、
どこかで苦笑いに似た違和感を感じるものだと思います。
あれって、本能で感じているのだと思います。
そして、そういう感覚、って大事なのだと思います。

そのちょっとした自分の感じ方(人や物に対しても、
自分に対しても)に注意してそれを素直に受け入れる、
ということが、自分を感じる、とか自分を受け入れる、と
いうことに繋がってくると思うし、本当の意味で自信に
繋がるのだと思います。
「自信」って慢心することではなく、自分(の感覚や考え)を
信じてそれを積み上げていった先にあるもの(安定感とか信念とか、
その人そのもの)なのではないかな〜、と思います。
だから、ちょっと話しはずれましたが、自信の欲しい人は、
まずすべて自分がどう感じているかを否定しないで受け止める
(認識)することからだと思うのです。
刷り込みがフィルターになって感じているのか、本当に
自分が感じているのかも。


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