何者でもない自分が愛

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何かに夢中になったり陶酔したり感動したりした時、
気持がいいのでその状態を続けたいと浸りたいと
思うのだけど、そうしようとすれば大抵ぴしゃりと
水を浴びせられるようなことが起こって、ハッと
我に返らされるようなことが起こります。
これ、何でだろう?とふと考えていたのですが、
ああそっか、何かに対して心が震えた時は愛なの
だけど、その状態を長くキープしようとすると、
思考が動き、気付かないうちに自分への陶酔、に
すり替わっているからだ、と気がつきました。
そして、何かに夢中も陶酔も感動も愛なのだけど、
それが、自分に陶酔、にすり替わった瞬間エゴに
なるのだと気付きました。

神様は愛でできている、と最近確信したのですが、
外に向かって心が震える時、自分を手放しています。
ありがたいとか感謝に近い感覚になったりすることも
あると思います。

何者かになろうとするから疲れる、ということを
以前書いたかと思いますが、何者かになろうとする、
つまり、自分を確立したいという気持もわかるけど、
それって対外的であったり比較が必要だったり、
外からの賞賛を必要としたり、結局エゴなのだと思い
ます。つまり愛の反対。

何者でもない自分でいること=愛 なんて。
師匠がヒントをくれました。ありがとうございます!

「神様的」について思うのですが、楽に生きられる
方法だと思うのです。
何者でもない自分でいることは、神様的でもあるのだと
気付いて驚きました。


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