学生時代、京都で過ごしました。
社会人になってからも何度か京都に行く機会があり、
その度に思うことは、京都に行くとすべてが整う、という
ことです。
心や頭がほぼ自動的に整理され、無駄がなくなるのです。
自ずとマインドがポジティブになり、落ち着くのです。
それは社会人になっても数年は、京都を離れてもそういう
マインドが続きました。
25歳になった時くらいに、私は、「なりたい自分になった」と
思った瞬間がありました。そして、その後自分の中に意識せずとも
あった「なりたい像」みたいなものがなくなり、わからなくなり、
途方に暮れ、どうしていいかわからなくなりました。
いきなり不安になったのです。
それまでずっと、「憧れの誰か」や何かを持って、それを目標に
していたのですが、そういう対象が無くなってしまいました。
その時、これから自分がどこを目指せばいいのかわからなく
なり、これからが本当の自分を作って行くのだろうと感じながらも
それまで自分の中で整理され統合されて持っていた価値観が、
「本当にそれでよかったのだろうか」「違う人の感覚もわからなければ
いけないんじゃないか」等と思うようになり、自分(の感覚)に
対して不安になり、それまで自分の中にあった価値観がバラバラに
なって行くのを感じながら数年近く生きていました。
スピリチュアルに興味を持ち始めたのも、丁度その頃でした。
「自分探し」みたいなことをしていたのかもしれません。
自分の感覚に疑いを持つようになったこと、自分に無い感覚を
受け入れようとしたこと、それを試したことから、それまでの
自分だったら絶対にしないことをしたりするようになりました。
想像出来るリスクや自分の心や潜在意識がダメだ、と思うことは
断固として近づきたくなかったのに、それを選択することをして
みました。自分で実験したのだと思います。どういう感じになる
のか、という経験を。
大事なものを失ったり、這い上がるのが大変なので決してオススメ
できませんが、やってみないと気が済まない私はそうでもしなければ
納得しなかったのだと思います。
自分でどん底に落ちて(自分で落ちて?)、人や自分を信頼して
いけるようになるまで、自分はどう感じているか、どう思うか、
結局自分を知る確認作業をしてきたのだと思います。
それを、数年かけて一つ一つ行っていることに気づき、ようやく
京都にいなくても整理された自分に戻って来たとこの頃感じています。
長くなってしまいましたが、京都ですっきり整理されまとまっていた
自分を、この10年くらいかけて解体し、確認しながら戻していく、と
いう作業をしてきました。
面倒くさいですね〜
ある人が、「よく考えなくても、深く考えても結論は変わらない」と
言っていたのですが、私はそのバラバラ解体+修復作業をしなければ
納得できませんでした。頭が固かったのです。
目標や憧ればかりを追って生きていたけれど、それが無くても
のほほんと楽しく生きていけることを今は感じます。
多分、自分を受け入れられることができてきたのだと思います。
自分は他人にはなれないから、ということも最近腹から納得し、
自分のペースをつかみつつあるのかもしれません。
だから、以前に比べ、焦ることもなくなりました。
面の皮が厚くなったと言われればそれまでですが、これ、
とても楽です。
「そのままの自分でいい」」と受け入れられること、って
こういうことに近いのかなあ、と思います。
そして、最近ある記事に書かれてあったこと、
「目標や憧れを目指す人は多いけれど、それを超えようとか
自分に超えられる可能性があると思う人はとても少ない」と
いうことです。それくらい、自分に可能性を感じても
いいと思う、ということだと思いますし、その言葉は
人の可能性も未来も広げるなあ、と素直に納得しました。
目標や憧れを目指していた頃の自分には想像もつかない
言葉だったと思います。
私自身はここ最近は、競争心とかがほとんど湧いて来ないので、
「超える」と言う言葉もピンと来なくなっているのですが、
まあ確かに、自分の可能性に対して制限する必要もないし、
人生何が起こるかわからないからそういうこともあり得る
よね〜、でも目標としなくても結果そうなったってことも
あり得ると思うし、そうなったことも確かめる必要すら
無いような気がしています。
局面によって受け止め方と必要性が違うと思いますが、
目標や目指すところ、比べる対象が無い方が、
無限に伸びれる、ということもあるかもしれないなあ、
などと思ったりすることもあります。
2 Comments
Leave a reply →