相手をよくみようとすることもエゴ

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相手の中に希望を見ることと、自分の感じとは裏腹に
相手を良く見ようとすることは違います。

私は本当に臆病で恐がりだったため、どんな人を
見ても、「良い人」と思い込もうとしていたような
ふしがありました。
そこには、「良い人であってほしい」という、自身の
希望のようなものがあったのだと思うし、世界は優しい、と
信じていたい、また信じなければ恐くてやっていけない、と
そんな風に思っていた節もあったと思います。
一方で、色んなものや人を上から目線で否定的に見る癖も
あったりと、アンバランスで極端でした。
そんな自分はもちろん面倒くさかったですが、面倒くさい
と思うこともなく理屈ばかりで生きていた時代がありました(笑)。

「良い人であってほしい」とその人を自分の理想や希望に
当てはめてみようとするのもエゴだなんて、当時は思いも
よりませんでした。自分にとっての好きな人に対する否定的な
自分の気持を見ることが、私にとっては勇気がいることでしたし、
辛かったです。できれば見たくないこと。
一点の曇りもなく誰かを尊敬したり崇拝したり好きになったり
出来るのは、ある意味とても気持のいいことであり、
幸福感があると思います。それだけでいいのに、だんだんと、
どうしても、??というところを見つけてしまって、そういう自分は
意地悪なのではないかと随分悩みました。

だけど、エネルギーはきちんと流れてくるわけで、そんな偏った
見方をしているところにちゃーんとメスが入ってきました。
何度もお試しのように。宇宙から公平に見るように、という
ニュートラルを仕込まれた経験だったように今は思います。
結局、良いとこばかりをみようとして、自分の??な気持を
無視しようとするわけですから、相手にとっては都合よく見て
くれる人なわけです。そういう上下関係のようなものを自ずと
相手にも作らせてしまっていたのかもしれません。
よほど相手がしっかりしていないと、つけ入れさせてしまいますし、
そんな関係であればある程、自分の気持を素直に伝えた時の
相手のショックや反応はかなりのものでした。
それを見るのも遭遇するのも、嫌だとわかったので、生意気だと
思われても素直でいることの方が結果大事なのだと思ったのです。

そして、素直に感じなければ真実が見えてこないし、本当の
対処方法が生まれてきません。

自分に小さい頃から降りかかってくる同じパターンのお試しや
色んなことから、いい加減自分の感じを受け入れなければ
いけない、というかやってられないのだなあと思い、それから
ようやっと自分の意見が言えるようになったのだと思います。
受け入れてそれから対処して行けば良いやと思うようになりました。

親であっても子であっても、どんなに仲のいい夫婦、恋人、友人、
先輩、後輩、尊敬する大好きな人であっても、完璧な人は存在しない、
むしろその完璧の定義も自分自身の勝手に作った枠。
それを作る必要がないと知り、作らなくなったら、普通に受け入れる
ことができるようになりとても楽になりました。

誰しも、良いと思う面もわれば悪いと感じる面もあります。
それを他人の良い悪いを判断したり言っても仕方のないことだと
わかってくると、大分楽です。
だって、その性質を持っているが故にその人に起こる事柄が
やってきてその人自身が対処し成長して行くだけなのですから。
そして、他人のそれを感じて、どう動けばいいか考えるだけ
なのだとわかると、やっぱりとても楽になりました。
無理矢理自分の感じ方を曲げても解決にはなりませんものね。


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