赤福を食べた後、宿に帰ってから、内宮別宮の月讀宮さんに
行くことになりました。行ってみたかったですが、今回は
一人ではなかったので、母と妹の意見を聞いて、、、と思って
いましたが、結果行けることになりました!
こちらには、別宮の月夜宮さんもそうですが、アマテラスさんの
弟のツキヨミノミコトさんが祭られています。
ツキヨミノミコトさんの荒御霊、和御霊、ツキヨミさんのご両親の
イザナギさんとイザナミさんが向かって左から順に祭られて
います。伊勢特有のお社が、4つ並んでいます。
それにしても、神様の前では誰でも少なからず「見られている」と
思うのだと思います。そういう時、自分の心を直視するのだと思います。
自分の心を見せられる鏡、みたいな場所だと思います。
そういう意味で、ご利益、というより自分自身で気づけることが
ある場所、自分自身で磨くことができる場所でもあるのではないかと
思います。
見てほしくないことが沢山あった私は、神様と話ができるように
なりたいと思う割には、ずっとどこかで恐さを抱えていました。
スピリチュアルに興味を持ち始めて、目に見えないものがわかる
ようになりたい、と思っていた時は、よくある神社での作法、等
きっちりしなきゃいけない、と思い、本当にそうしていました。
神様に、媚を売っていたのと同じだと今は思います。
ここで話はそれますが、目に見えないものと繋がりたい、という
先には、「自分はすごい」とか「特別」になりたい、という気持ちが
あるこも多いと思います。また、楽をして良い生活をしたい、
と思うこともあると思います。スピリチュアルを魅力に感じさせる
落とし穴だと思います。また、最近ではご利益ばかりをうたって
スピリチュアルブームに便乗して商売をしようとする寺社仏閣も出て
来ています。神様を都合よく解釈していますね。神社に行って、祈れば
叶う、風水に従って色や家具の位置を変えれば運命が変わる、
それはまず本人の気持ちと本人の努力があっての事です。
それでも、本人の希望するようにならないことだって、たくさんあります。
そして、「願ったのに神様はいない」と言って怒ったりする。。。
自分の思う通りにならないから、神様はいない、私も長らく
そう思っていましたが、思い通りにならなくても、結果こちらで
良かった、とか、本来気づくべき大事なことに気づけた、とか
後になってわかる素晴らしい出会いがあった、とかそういうこと
なんだと思います。
そういうことなんだ、というのが、スピリチュアルに興味を持って数年、
やっと最近わかってきました。スピリチュアルに興味を持って色々と
知ろうとすることは、何だか少し憚られました。それはきっと自分の中に
「自分は特別になりたい」みたいなエゴの気持ちが大きくて、それを
知られるのが恥ずかしかったからだと思います。
だから、恥ずかしいと思ったのは、正常な感覚だったと思います。
「自分だけ幸せになりたい」という気持ちも同じだと思います。
本当は、本来の自分の生き方ができるように力や気付きをいただける、
パワースポットとはそういう所なんだと思います。
話を元に戻しますが、月讀宮さんを後にする時、
「私たちはどこにでもいる。だから安心して暮らしなさい。」と
お言葉をいただきました。
なんて優しい言葉だろう、と思いました。
「おてんとうさまはいつも見ている」と昔から言われていますが、
本当にそうなんだなあ、と思いました。
私はエネルギーや神様に興味があって神社を訪れていますが、
別に神社に行きたくない、という人が守られていない、と
いうことは決してありません。平等にしっかり見られているし、
守られていると思います。それは、どんなに辛いことがあっても
です。その人にとって、必要な経験かもしれません。今は、
わからないかもしません。報われないと思うかもしれません。
では、それが運命、と思わず、一番大事なのはやっぱり、
「自分がどうしたいか」「どうなりたいか」という気持ちと
それを変えていく努力、動きの努力だと思います。
キリスト教では、「汝、自ら助くる者を救う」と
言われるように、それはどこに行っても同じなんだと思います。
行かなくても見守られているし、自分の努力が一番大事ですが、
どうしても辛かったり苦しかったりする時、自分にとって気になった
パワースポットに行くこともいいんじゃないかな~、と思います。
私は宇宙や神様とそんなにコミュニケーションがとれるわけでも
なく、構造を実際に理解しているわけでもないので私の経験と
私が感じることのみの提供になりますが、私は近所の神社から
あらゆるパワースポットを巡るようになって、気づかされる
事や直感力等スピリチュアル的な成長が多々あり、助けられたと
思うことが多々ありました。それはまた、結局自分を知ることに
つながっています。
私にとってはパワースポットに行ってみることが興味があったこと
ですが、興味があることを続けたことによって知ることや広がることが
かなりあったと思います。