2016年9月29日
by Sun Dish
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セルフヒーリング・クリアリング

ヒーリングや自分でクリアリング(ご参考までhttp://sun-dish.com/2016/07/クリアリングの方法/)
する人は感じられると思いますが、エネルギーを送れば送るほど、
自分のものも浮き彫りになってきて、手放すものが明らかに
なってきたり気づきが増えていくかと思います。
これも、こまめにしたり丁寧にしたりするのも、
私は努力だと思います。
目に見えないエネルギーを扱うのにも、エネルギーが
要ります。

小出しにしていくのも、思い切ってしていくのも
自分の勇気や体力だったりしますが、そうやって積み
重ねていけばいくほど、気づくスピードも速くなるし、
受け取るエネルギーや繋がる先が大きく速くなっていく
のを感じます。

ヒーリングもクリアリングも、自分を上げるためのもの
ですが、もうエネルギーを感じてセルフで行うことが
通常化されてきてもいい時代に入っているよなあと
思います。

2016年9月27日
by Sun Dish
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エネルギーを受け取るのにもエネルギーがいる

自分の愛する人が、人生で魂が最も光って輝き、本人も
魂の喜びを感じている瞬間の理由が、自分以外のこと
であることを悟った時、相手をそうできるように
解放できる自分がいるか? ーということを考えさせ
られていました。
大好きでいつも一緒にいたい相手の魂が、魂ごと喜ぶ、
魂の目的を果たしたいところを、「一緒にいたい」で
縛り付けるのは、愛じゃないよね〜、ということです。
自分と離れなければいけない状況が来ても、相手が
輝く、相手の本当の幸せのためならば、解放するのが
愛。言うは易し、のところもありますし、やせ我慢を
することでもないし、素直に渋っている自分を見つめつつ、
どれが愛か再考させられるようでした(@@;)

何か大きなものを受け取る時、大きなものを手放すことに
なることがあります。
「自分で決めろ」と突然やってきました。
あ、でもまあ、突然、と言っても、ちょっと前から、
何となく何か起こるサインはあったのですが。。
こういう時、ガイドや自然やスピリットに聞いても、
答えはくれないし、何とも言ってくれません。
でも、全部自分の内側で起こっていることなので、
人に相談することでもないし、そういう内容でもないので、
本当に自分で決めるしか(決めない、という手もあるかも)
ないのですが。。

経験のある人はわかると思いますが、「選べる」という
豊かさも、実際そうなってしまうと、どうして私ごときに
そんな大きな決断をさせるんだ、とひるんでしまいます。

そして、本質は誰でも選べるし自由なのですが、
自分の未来を選べる自由さに感謝ですね(笑)

2016年9月23日
by Sun Dish
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エネルギーの高低

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エネルギーの高い低い、輝き方の大きさ美しさは、
人によって違います。
だけど、エネルギーの法則として、水と同じで、
高い所から低い所に流れていきます。
周りの人よりエネルギーの高い人はエネルギーが
減った、奪われたという感覚、また、自分より
エネルギーが高い人に対しては、惹き付けられる、
ということが起こります。

ここでは、エネルギーの高低の善悪を議論するのでは
なく、こういうものだということを書いていきます。

どうしてかわからないけれど、相手のことが気になって
仕方がない、ついつい真似したくなる、仲良くなりたい、
繋がっていたい、超楽しくて仕方ないと思う相手がいた
ら、自分よりエネルギーの高い相手です(ここでは
恋愛はおいておきます)。
そういう人と実際仲良くなったり繋がったりすると、
相手のエネルギーが心地よい、つまり一緒にいると
心地よいのですが、相手は更に光っていたり自分の
エゴを浮き彫りにするような鏡を持っていたりする
ので、気をつけていないとエゴが炸裂してしまうことが
あります。
例えば、そのエネルギーの高い相手から、自分の何かを
指摘された時、自分とは違う意見を言われた時など、
愛憎紙一重のような感じでものすごく怒ったりして
豹変したりします。

これ、受けた人にとっては、びっくり仰天、大変ショック
ですし、相手がもっと大人だと思った〜、、という感想に
なること請け合いなのですが、このエネルギーの高低って、
大人と子供みたいな関係とも言えるかもしれません。。。

エネルギーの低い人は、高い人に対しての承認欲求も高く
なります。つまり、自分のしていること、自分自身を認めて
ほしい、ということ。。だから、必要以上にアピールが
強くなります。

まあこれは、概してエネルギーの高低差の大きい場合の
話しですが、自分を振り返って、何か当てはまる所が
あれば、エネルギーの高低も考慮してみてください。
低い、と悟った場合は、境界線(大人の距離を保つ、
自分は大人であるという認識のもと客観的に冷静になり
自分の言動を見つめるように努める)を持って行動するに
努めればいいだけです。そうして自分を上げていくことが
できます。

また、エネルギーが高いと悟って何かで苦労している場合も、
大人の距離感を意識していかれるといいと思います。

一見、周りに合わせることが無難で楽に見えるかもしれま
せんが、本当の自由を手にした人は、そうではないことを
知っています。
自分の魂やハートが求めることに素直にしたがうことが、
本当の自由と幸せを手に入れられるということを。
(※誰しも魂やハートの奥底は正しい倫理観が組み込まれて
いると思います。その上での話しです。)
それが刷り込みの常識や周りの期待で受け入れられなかったり、
というのはよくあることですが、魂とハートに従って心から
あなたが幸せになることは、人類の進化に繋がるくらい
大きなことだと思っています。
自分の魂とハートを無視して周りの目を気にしながら周りに
合わせて生きていても、魂やハートがあなたに働きかける
ので、楽ではないでしょう。

決して長くはない人としての人生を、ビビットで心から満足
して楽しくいきたいなあと思います。

2016年9月21日
by Sun Dish
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自分のすべての時間を素敵に向ける

自分の生きている時間をいかに素敵に過ごすか、
それだけ。と、今朝思いました。

自分だけの時間でなくても、誰かの世話をしたり
仕事をしたりする時間も、自分の時間、自分の人生
には変わりないこと。それをいかに素敵なものに
するか。
その時間を愚痴や誰かの悪口に充てたいか。
高校生か大学生くらいの頃、う〜ん、それはもったい
ないなあ、と思って、素敵なことばかりに目を
向けるようにしていた時期がありました。
そうして大学生になり家からも離れ、好きなことと
好きな人と素敵さで埋め尽くすように生きていたと
思うのですが(うふふ、自分で言うのもなんですが、
お陰さまで充実した自由なとても楽しい大学生活を
送ることができました)、社会人になって、まるで
小学生や中学生の時のような窮屈感を感じるように
なり、「大人だから、働かなければならないから」と
いう思い込みの中で生きるように自分を知らず知らずの
うちに仕向けていってしまいました。
そして、「働くのや生きるのは大変、、、と。」。
学生の頃だってアルバイトもしていたしサークルで
忙しくしていたのに、この奪われた自由感はなんだろう、、
と思いつつそのまま流れてやってきて、ふと最近、あの
違いはなんだったのかと思っていたのですが、
「働いているときは自分の時間ではない」と思っていた
からじゃないかな〜、と気がつきました。
そして、「時間がない、忙しい」とずっと言ってきた
ように思います。

確かに、「自分だけの」時間ではないかもしれませんが、
誰かと一緒にいる時間も会社で働いている時間も、
自分の時間には変わりないわけです。
私は一人でぼーっとするのや一人で過ごすことが大好きだし、
必要不可欠なのですが、学生の時のように多く持つことは
できません。それをストレスにしていたとは思うのですが、
でも変なのですが、休日どれだけ一人の時間があっても、
なんだか上手く使えなくて、何となく寂しさや無力感が
あったように思います。おそらく、「私はこれは大して
好きではないけれどやらなければいけない」と思っていた
つまらなさ感から、目の前を素敵にすることに時間を
費やせなかった、からではないかと思います。

自分だけの時間が多く取れる時、取れない時があるし、
人それぞれまた違うと思います。だけど、それぞれに
その時々に必要だからそうなのかなあと思います。

だから、私にとってはエアポケットのようにふっと出来た
短い自分だけの時間は、とても贅沢でご褒美のように感じる
のですが(笑)、やはりこれも必要な時にタイミングよく
やってきてくれます。

えーっと脱線しましたが、誰かや何かに必要があって
費やさなければならない時間も、自分の人生と時間には
変わりないこと。
自分のどんな時間も素敵にさせる、素敵にしようと思って
生きている人は、キラキラして楽しそうだなあと思います。
そして、(実際には忙しいのかもしれないけれど)ゆったり
余裕があって素敵だなあと思います。
そういう人に惹き付けられます。

2016年9月18日
by Sun Dish
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期待しないことも愛

期待すると上手くいかない、というのは、もう
通例のように感じますが、期待すること=自分で
宇宙に制限をかける、ということです。
人に期待するということは、人に制限をかける、と
いうことで、期待された人は窮屈に感じるものです。

期待しない=愛 だと思います。
つまり、期待しないことも神様的(笑)。
もっというと、期待なんてしなくても、そのままでの
あなたが大好きと言えることが愛、じゃないでしょうか。
あ、でも、制限や窮屈なしでの期待をかけることが
できるスーパー玄人も世の中にはいると思います。
そういう人は、ごくごく少数なので例外です(笑)。

宇宙は思いも寄らなかったことを起こさせるなあと
ずっと感じていますが、おかしなことに、期待した
通りになっても、期待していなかった時より嬉しく
ないのです(^^;)。面白いですね。

期待しない=捕われない、ということでもあると
思いますが、宇宙のスーパーコンピューターに任せて
サプライズを楽しんだ方がお得なような気がします。

サプライズも神様的かもしれませんね(笑)。

とは言っても、人間ついつい期待してしまうもの
です。
私は、自分でそれに気がついたら、あはは、しょうがない
よね〜、って笑い飛ばし、次はもうちょっと上手くいく
よう試みたりしています(笑)
かたーく書いてしまっていることが多いかもしれませんが、
私自身ゆる〜くやっています。

捕われたり滞ったりしないよう、常にきれいなエネ
ルギーや気が身体も心も魂も流れている状態でありたい
なあと思います。

心や精神が滞るときは身体から、とよく思います。
ヨガや運動をして身体の体内の巡りがよくなると、
自ずと心や精神もついてきたりします。

身体という現実を生きる魂の高貴な入れ物(^^)、
物理的に現実的にケアしていきたいものです。
スピリチュアルだから目に見えないエネルギーだけで、
ってのは、神頼みと同じ怠慢ですよねえ。。。
神頼みも現実的な努力をした後の最後の砦でないと、
全部見られていますしね。

2016年9月11日
by Sun Dish
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オリジナルの方法

「人と同じようなことをしようとするから上手く
いかない。」

ぼーっとしていた時、ふと浮かんできました。

そして、そうだよなあと思いました。

何かが上手くいかない時、他の人はどうしているの
だろう、と気になったり、だからこそハウツーもの
の本もたくさん出ていますし、実際それがドンピシャ
役に立つこともあるのですが、今回自分の場合は、
「自分で考えないで他の人のやり方に同化する、
逃げる」をしてきていたことを感じさせられました。

時に、考えることは面倒くさいですね(^^;)
面倒くさがりの私は、とりあえず他の人の方法を見て
やってみよう、、、としていたのですが、そうしてみて
上手くいかないから悶々するしぐちぐちしてくるし、、を
していた矢先でした(笑)。

そして、どんな人もそうですが、「自分と他人とは
違う」ということも改めて教えられた感じでした。

自分には自分に合ったやり方があるはずだから、
どんぴしゃそれを狙った方が早いかもしれないなあと
思いました。

ガイドに助けを求めながら気の取り直しです(笑)

水星の逆行で予定通り行かないこと多々ですが、
本当の意味で「のんびり」「おおらかに」を試されて
いるようです(@@;)

2016年9月7日
by Sun Dish
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影響を受ける方の責任

私は、本当にすぐに影響を受けやすく、例えば
大好きな本等は、その感性を自分なりにすべて
コピーしてしまうほどです。
他の表現をすると、映画を観た後に、主人公に
なり切っちゃう、みたいな感じでしょうか。

私は長いことどっぷり影響を受けていたと思う人が
いたのですが、ふとそういう自分に気付いた時、
「これって憧れの誰かの物まねなんじゃないか」と
思ってしまって、そこから再構築しなくちゃならなく
なって、でも「じゃあ本当の自分って何?」と全部
捨ててしまったものだからわからなくなって、結局
自分の判断をスルーして世間のいいというものを
一度受け入れてみる、という経験を自分に課したことが
あります。
気付いたら、何年もやってしまっていたのですが。。。

(余談です:
私にとっては、価値観を一度全部壊す必要があの時
あったこと、自分の判断をスルーして(あ〜でもこれは
やり過ぎたかも、、)世間の「良い」をやってみようと
したことは今では必要だったように思いますが、なんだか
こういった、「あったものをいきなり崩して再構築」とか
「前はできていたのにいきなりできなくなって、模索しな
がら再構築」みたいなことが私は長期スパン(もう10年
20年単位です)でやってきてました。
そろそろこういうパターン卒業したいですし、こういう
パターンを繰り返してきた自分の理由もわかりました。
今は最後の再構築でありたい、と思っています。
もちろん、日々命の最後まで新たな発見があるのはわかっ
ていますし、その話しとは別です。

すみません、長くなりました。)

自分の判断基準・価値基準が昔から曖昧であることが
私はどこかコンプレックスに感じていたのだと思います。
だから、強い意見を持っている人や、強く発言できる
人、強い意見に惹かれました。

紆余曲折あって今思うことは、物事のすべてにおいて
確固たる意見が言えなくてもいい、そんなに強い意見が言え
なくてもいいということです。
論点となっていることは、自分にとってそんなに
重要なことでもないかもしれないし、必要な時に必要な
ことが言えたり、逃げずに言わなきゃいけないことや
しなければいけないことができていることのほうが大事
だと思います。
強い意見や人に惹かれても、振り返ってみれば、
「相手のいいなりになってしまう」という結果を生んだり、
何かにつけ込ませてしまうことが多くあったように
思います。

つまり、人は人、自分は自分でいいんだなあと
改めて思いました。
どんなに強く憧れても惹かれても、その人と全く同じに
なることはあり得ないし、最後には、それを知らされる
だけでした。
だから、どんなに強く憧れても惹かれても、自分と違う
価値観をその人の中に後から見つけたとしても、自分が
劣っているから理解出来ない、とか卑下することも無いし、
無理矢理相手の意見に合せることも無い。そこで尊敬が
失われたわけでもないのです。どんなに惹かれても、
相手とは違いのある自分の存在を認めること、が重要で、
おそらくこれが、「人の上に人を立たせず」なのだと
思います。
平等の真理なのかなあ(笑)、なんて思います。

そして、結局自分の価値観、というのは、自分がどう
感じるかを素直に感じるだけ、だと思うのです。
でも、ちゃんと感じること。他がそう言ってるから
それでいい、とか誰かの意見に便乗しようとするの
ではなく、自分でちゃんと感じること。
これさえ日々繰り返していけば、自ずと自分の価値観は
形成されていくと思うし、他と比べなくても大丈夫な
自分やそういう状態(自信)も得られると思います。

影響を受けやすい、ということも、受ける側にも責任が
あります。
影響している人と自分とは違う、ということを念頭に、
影響を受けられる範囲は自分で見極めなきゃな〜と
最近思いました。

2016年9月3日
by Sun Dish
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いい女考

何者でもない自分になる=愛だと書きましたが、一方で、
女の人は「いい女になりたい」という気持はあっても(いや
むしろあった方が)いいんじゃないかと思います。
私が「いい女」について書くなんて、なんだか笑ってしまい
ますけど(笑)大事だと思っています。

私は高校生の時、山田詠美さんの「放課後の音符」という
小説に出会い、多大なる影響を受けました。
その感覚をコピーしてしまったと思うくらい影響を
うけましたが、あの頃彼女と彼女の小説に出会えたのは
本当に私にとって幸運だったと今になって思います。

小説を通して、ステレオタイプでいようとしないこと、
偏見を捨てて自分の目でものを見ようとすること、人や
出来事・空間の中に素敵を見つけようとすること、意外性の
素敵さ、素敵に変われるよう自分の中にハンドルでいえば
「あそび」のような空間を空けておくこと(自己意識や
自分だけの理想でガチガチにしない、新しいことを取り入れ
たり受け入れたりできるような隙間、未完成な部分、
そういう自分を認めること)、こういった物事の見方や
自分の価値観を小説の中から自ずと学び、自分の中に取り
入れようとしました。
どこまでできていたかはわかりませんが、それまでの私の
価値観を180度変えるような大きなきっかけに違いありません。
こき下ろしてしまう相手(笑)の中にも、自分が負けを認め
られる部分や相手の素敵さを見つけられるくらいにはなれた
つもりでいます(笑)。
山田詠美さんの「4unique girls」というエッセイも
おススメです。

「いい女」について、たくさんのエッセンスいやもうギフトと
言ってもいいくらい書かれてあります。

ところで「いい女になりたい」「いい女でいたい」という気持は、
自分を客観的に見るし自制も自律もします。
それっていい女のすることだろうか?というのが基準で自分の
言動を見るため、人と比べず自己判断します。
自分が自分に向ける目。自分を上げる(気分じゃなくて質を)ための
判断基準になると思うのです。
どんな時もそういう姿勢でいること、人生の中で自分を鍛える、
磨く、より美しくなる、という本当の修行のような気がします(笑)。
もちろんグラウンディングの大きな要素にもなると思います。
何より、自然体でいることに直結します。

さて、その「いい女」かどうかというのは、自分では一生
わかりません(笑)。それは他人が判断するものだからです。
誰かに言われることがあるかもしれないけれど、その時は
ありがたく受け取っても、またそれに浸ろうとしたり図に乗ったり
すると、すぐさま愚の骨頂と化すのです。その愚の骨頂の
時の顔をたまたま鏡で見たりした時には、まあ恥ずかしい。
恥ずかしながら、私は結構あります。

ちなみに、私は女なので男の人については正直よくわからない
所もあるのであんまり言えませんが、個人的に、「いい男に
なりたい」を目標としていてほしくない気がします。
ギラギラ感を生む可能性の方が強いような気がして。。
どちらかというと、「これしたら格好悪いよなあ」くらいの
抑制的な基準は持っていてほしいですが。
更に、「これしたら格好いいんじゃないか」と思っての行動は、
益々格好悪い結果を生むような気がします。。。

バランスの問題ですが、人は、他を意識しているか、自己を
意識しているかに分かれると思います。
「自分が」いい女でありたいか、「他人から」いい女と
見られたいか。
これによって動き方も考え方も大きく変わってきます。

何でもそうですが、盲目になり欲が出過ぎてしまうと自分を
見失います。自分を見失うというのは、上記の「それって格好
いいか、悪いか」「ちょっとまずくないか?」等の
判断が客観的にできなくなるということです。
実は、スピリチュアルやってる人は陥りやすいのではないかと
思います。
自分にもそういう時期がありました。
能力を上げたい一心で、普通だったら、「うわあ、引くわあ。。」
と思うことにも手を出してみたりしたこともありました。
まあ経験にも勉強にもなりましたが。。。
ちなみに、正しいもの、愛あるものは、不思議とそういう
違和感がないです。ご自身の感覚の判断基準にされてみてください。

能力や地位や何よりも、まず、自分がいい女かいい男か
の方が、ずっと大事ではないでしょうか?

ところで、「神様的」な話しなのですが、以前、自分のガイドが
いい男だと書きました。エネルギーなので姿形ではなく、もう
感覚としか言いようが無いのですが、「いい男」なのです(笑)。

また、話しは少しそれますが、昔友達のガイドさんと話しをして
いた時、「K(友人の名前)をいい女にしたいの」とその
ガイドさんは言っていたことを思い出しました。

いい女・いい男であることは、神様的なのかもしれないなあ、と
思うのです。

2016年9月1日
by Sun Dish
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何者でもない自分が愛

何かに夢中になったり陶酔したり感動したりした時、
気持がいいのでその状態を続けたいと浸りたいと
思うのだけど、そうしようとすれば大抵ぴしゃりと
水を浴びせられるようなことが起こって、ハッと
我に返らされるようなことが起こります。
これ、何でだろう?とふと考えていたのですが、
ああそっか、何かに対して心が震えた時は愛なの
だけど、その状態を長くキープしようとすると、
思考が動き、気付かないうちに自分への陶酔、に
すり替わっているからだ、と気がつきました。
そして、何かに夢中も陶酔も感動も愛なのだけど、
それが、自分に陶酔、にすり替わった瞬間エゴに
なるのだと気付きました。

神様は愛でできている、と最近確信したのですが、
外に向かって心が震える時、自分を手放しています。
ありがたいとか感謝に近い感覚になったりすることも
あると思います。

何者かになろうとするから疲れる、ということを
以前書いたかと思いますが、何者かになろうとする、
つまり、自分を確立したいという気持もわかるけど、
それって対外的であったり比較が必要だったり、
外からの賞賛を必要としたり、結局エゴなのだと思い
ます。つまり愛の反対。

何者でもない自分でいること=愛 なんて。
師匠がヒントをくれました。ありがとうございます!

「神様的」について思うのですが、楽に生きられる
方法だと思うのです。
何者でもない自分でいることは、神様的でもあるのだと
気付いて驚きました。

2016年8月31日
by Sun Dish
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干渉しないこと

干渉しないのが愛 というのを最近思い出しました。
干渉しないのは、相手を信じること、相手の未来も
能力も信じること。
無関心、というのとは違います。

心配だから、大好きだから、を理由にすべてを知ろうと
されたり(監視されてるように感じることも)、あれこれ
言われたりで自分の思うように出来ず苦労された人も
多くいると思います。
概して、光の強い人程、受けやすいです。

一見愛に見えるそれらは、裏に隠れている恐怖や
寂しさ嫉妬、アドバイスしてその通りになるだろうという
傲慢さや更には自身の能力の誇示であったりします。
他人を描いたレールに乗せようとしたり、相手が思った
通りにいかないことに腹を立てるのも同じです。
つまり、自分が安心したいだけというエゴや支配欲に
繋がるんだと思います。

相手には相手の人生とペースがあります。「もっと
こうすればいいのに」とつい思ってしまうけれど、
相手の力で目の前のことがこなせることを信じて、
一歩引いて見守るというのが本当の愛だと思います。

全然関係ないのですが、「神様的」が最近私のテーマと
なっているのですが、神様って、干渉してこないなあと
思います。
神様なんていないんじゃないか、と思うくらい(そう
思って生きてる人もたくさんいるしそう思って生きれる
くらいですよね)自由で干渉してこない(笑)

でも結局それが、本物の愛だからだと最近気付きました。
本物の自由と楽さと心地よさがあります。
寂しい人も構ってほしい人も、干渉となるとノーサンキューな
はずです。

例えば、寂しさや孤独感があってもいいと思う
(あ、不要だと感じるのに、ナルシズムの意味でずっととって
いるものと違います。手放すことができない、自分の内側から
出てしまうもの、という意味です)。
対外的にアピールしなければ、その人の素敵な要素に
繋がると思う。
そして、それらもひっくるめて一人の時間を素敵に過ごせる
ようなゆったりした趣のある人、口元は微笑んでいるような
人がたくさん増えたらいいなあと思います。
アピールしなくても、歳をとればとる程、内側は外に出ます。
その出てきたものが、なんとも言えない素敵なものでありたい
と、まだまだ修行中の身ですが、思っています。

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